ショスタコーヴィチ;交響曲第13番<バビ・ヤール> ハイティンク/COA [ショスタコーヴィチ]
ショスタコーヴィチ;交響曲第13番変ロ短調Op.113
B・ハイティンク/アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団・同合唱団
M・リンツラー(Br)
バビ・ヤールに記念碑は無い。切り立つ崖が粗末な墓標だ。
私は恐ろしい。私は今日、年を重ねる。あのユダヤの民と同じ数だけ。
今私は思う、私はユダヤ人だと。
私は今古代エジプトをさまよっている。
ここで私は十字架に架けられて死に、そして今も残る釘の傷痕。
私は思う、ドレフュス、それは自分だと。
俗物根性が私の密告者、そして裁判官。私は鉄格子の中、私は罠に落ちた。痛めつけられ… 唾を吐かれ… 罵られ… ブリュッセル風のフリルをつけた婦人たちがわめきながら、私の顔を傘でつつく。
私は思う、私はベロストークの子供だと。
血が流れ出し、床に広がる。酒場の主どもが狼藉の限りを尽くす。長靴に蹴飛ばされ、力なく私は集団虐殺者たちに空しく懇願する。「ユダ公を殺せ、ロシアを救え!」高笑いが響く中、粉屋が私の母をぶちのめす。
おお、我がロシアの民よ、私は知っている、お前は元々国際主義者なのだと。だが、しばしば汚い手をした奴等がその汚れの無い名前をかたったのだ。私は我が土地の善良さを知っている。何たる卑劣だろうか、臆面もなく反ユダヤ主義者たちは、厚かましくもこう名乗ったのだ、「ロシア民族同盟」などと。
私は思う、私はアンネ・フランクだと。
四月の小枝のように透き通るアンネ。私も恋をしている。私にきざな台詞は要らない。必要なのは、互いに見つめあうこと。何とわずかしか見たり嗅いだりできないのだろう。私たちは小枝に触れることも、空を見ることも許されない。でも、とてもたくさんできることがある。それはやさしくくらい部屋で抱き合うこと。こっちにくるの? 心配ないよ、あれは春のどよめきさ。春がやってくるのさ。そばにおいで。早く私に唇をおくれ。 戸を壊しているの? いや、あれは春の流水さ。
バビ・ヤールに荒れた草木がざわめく。木々は厳めしく見下ろす、裁判官のように。すべてがここでは無言の叫びをあげ、帽子をとった私は感じる、ゆっくりと白髪になっていくのを。そして私自身はやむことのない無言の叫びとして埋葬された何百人もの人々の上に響く。私はここで銃殺された老人たちのひとりひとり。私はここで銃殺された子供たちのひとりひとり。私の中のなにものも決してこれを忘れない。
<インターナショナル>を轟かせろ、地上最後の反ユダヤ主義者が永遠に葬られるときに。
私の血にはユダヤの血はないが、私は激しい敵意を込めて憎まれる、全ての反ユダヤ主義者どもにユダヤ人のごとく。
だからこそ ― 私は真のロシア人なのだ!
第Ⅰ楽章<バビ・ヤール>歌詞(エフトゥシェンコ詩;以下同じ)である。
凄い・・・
今回の標題についてはこの曲が作曲された(時代)背景等(一時は歌詞改訂までさせられた)を調べていただければわかると思うので割愛する(するなといわれそうですね)。
この歌詞に真に共感(理解でもいい)出来ない人がいるとしたら(いるだろうけど)、その人とは心を許した付き合いをすることは無いだろう。
わかるはずだ。現代を生きる人間ならば。
本Blog中、今回は最もインパクトの強いものの一つとなるであろう。